この世のwannaからmeを守る

この世の罠から身を守る方法を考えていきます。

やっぱり『言葉は魔法』にはなれない。

“言葉に魔法があって、ちゃんとした言葉を使えれば、相手に伝わって分かってくれる”なんて思っていました。そんな単純に考えていて恥ずかしいですね。例えば『優しい言葉』より『現物』がまず満たされないといけません。災害の支援なんかにも言える話です。文字なんてお金よりも現実から遠いと思います。人に関して言えば“知識や技術の経験、それと実際の手間”にぬくもりを感じます。お金は無表情です。

言葉は確かに他の五感を呼び寄せる。でも音や色のイメージの方がよく響く。赤ん坊や外国人に『優しさ』と言ってみても『?』と顔に出るだけだろう(当然ですが)。その分音楽(音の和音、イメージ)は万国共通で優秀なんだろう。ジェスチャーなんかも(でも手話は国によって違うんですよね。せっかく言葉の壁のないものなのに…)そうすると自然に言語が形作られてきたのも不思議に思う。
人間が訓練で覚えてきたモノでとても頭のいい生き物にみえる。でもそれに騙されたり、期待してしまう。たとえ《『悲しい』『冷たい』『暗い』》なんて見たり聞いたりしても、涙や温度で受けとることはありません。純粋だと不意に落ち込んでしまいます。言葉から感じる、鈍感な人との感情や温度差にもショックをうけたりします。(こういうものは小学生くらいに考えていくのでしょうね)。でも実際に見たり聴いたりすると直接感じてしまいます。 実際には『見ざる言わざる…』なんて生きていけません。言葉と感情を引き離しても冷たい人と言われそう…。人間社会で生きていく身体には、随分染み込んでいるので“抜く”のは難しいでしょうね…。



そしてネットのごちゃごちゃした印象操作やイメージ付けで耳を塞ぎたくなる。視覚(文字)もあるから便利な分鬱陶しい。高度な文章や文字での表現なら様々な文化の派生の中の1つでしょう。ただ世間や世の中のほとんどは中学生くらいの言葉で会話をしていて、綺麗な表現は相手とのコミュニケーションには重きをおいていません(文章が好きな人を批判しているわけではありませんよ、洗練された文字は美しい)。頭のいい人達の専門用語じゃないけれど、正しくても理解されなければ独り言のよう。だからこそこうやって少しでも理解されたいと、ブログに書いているんですかね。(書いている人自身はまさにそうです)
昔の文豪に想いを寄せるわけじゃありませんが、文を書くのが好きな人は、言葉に思いをのせて、受け取って欲しいのだろう(昔の人がどう思っていたかは完璧にはわかりませんが)伝達手段が文字だけという環境もあったかもしれません。
そして文字はやっぱり数学よりだと感じる。



今までブログを書いているけれど、なんだかとても恥ずかしくなってきました。書きたいことが山ほど有るけれど、まるでひとりごとのような…。
他人と繋がるような文章でなければ、ノートに書いているのと変わらないような気がしています。特にこのブログなんて話し相手がぼんやりしている。
(コメントされている方、いつもありがとうございますね。)



文字がうるさくなって、以前よりも『口だけ達者な人々』が増えたように感じます。そして『他人を啓発させたい人』が多いなあと感じます。あなたは言葉をどうとらえていますか。


この文章に何か感じて頂けたら嬉しいです。

死にたいピラミッド(人間社会から消えたい)


このブログは“死にたい”とか“致死量”という言葉に興味がある人が見るみたいですが。自分のせいで巡りめぐって影響して死なれると、あの世で『どうして止めてくれなかった』と言われかねます、ですが無責任に『生きて下さい』とは言えません。だから言葉を考えました。
ただ(人間社会から)死んで生きていければ理想的だと思います。



死にたい、けど怖い。この場所に居たくない、つまりは消えたいのだけど、それは安全な社会の檻から出るということ。未開の地で生きる、そうもいかないから、なるべく社会の隅っこで生きていくか、センチネル島にでも行って命懸けで“移民”となるか。
現実的には新天地へ行って(就職して)やり直す、そしてまたストレス感を感じる。これでもまだ現実的じゃない。そうして諦めて、人々は『ストレス解消』に人生を浪費する。



またそういう気持ちが湧いたとき、身体の方が動かなくなる。身体は生きようとしている。それなのに新しい社会脳というものでコントロールしようとする。働いている人はお酒で壊そうとしますね。でもそれはお薬でラリっている(ラリってるの語源ってドラクエの呪文ラリホーなんですかね。わかりませんが)のと同じ現実逃避。
心と身体と脳の区別はつくのかな。寄生獣じゃないけれど、乗っ取られた身体のようで気持ち悪い。 古くはドラゴンボールパラサイトイヴ、子供の頃、人の乗っ取られがなんだかとても不快で気持ち悪かった。理想的にはメンインブラックみたいな脳内コクピットだったらいいですよね。
映画の中の湯川教授が『想いの質量はゼロ』なんていっていたけれど、死んだら思念体にでもなるのかな。臨終のあとは身体が少し軽くなる、なんて迷信的なことが言われていたけれど…。死んだらどうなんて考えれるならまだ大丈夫ってことですかね。
もし綱渡りのような気持ちが安定して、笑顔で日常を送っても、そういう『生きること死ぬこと』は考えるんだろうな。そういう話をネガティブじゃなくてちゃんと話せる友達が欲しかったなあ…。もちろん病気の人の前では話せないけど、少し敏感過ぎると思う。
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太陽は平等に照らすけれど、一般ピープルは檻の中。色んなピラミッド(組織や派閥)の人達に遊ばれている。一般ピーは“数”でしかないんですよね。
マズローのおっさんの考えを借りると、誰かの自己実現欲求で弄ばれたり殺されたりしてしまう。安全欲求ならお互い様や正当防衛とも言えるけど。好奇心や“誰かのせい”をぶつけられるのは理解も共感も呼べない。また生存欲求を満たすための罪を“余裕な人”はどう思うのだろう。
“人の生理的欲求や安全欲求を満たすことが自身の尊厳欲求や自己実現欲求を満たす人間”が居なければただ競って争うの世の中になってしまう。
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無責任に『死なないで(そして社会で生き続けて)』とは言えません。ネット上(言葉)以外で『社会的に死んでも生きられる居場所(法のもとで)』が必要だと思います。
誰かのために死にたくありませんし、誰かのために死にたいです。

生きていていい基準と他人の不幸

他人の不幸でご飯が美味しくない。というより食べる気にもならない。被害者という言葉を聞きたくない。だからテレビなんて嫌い。暗いニュースと明るいバラエティが並んでいる。タダより高いものはないって言うけれど、ムダにした時間が取り返せないことに対するものと理解している。記者は偉いのだろうけど、それに変な色を付けて見せられてしまう。 テレビの習慣なんて心理学を使われちゃってるだけなんだよ。



他人の不幸とはいっても、人がどうなろうとニコニコご飯を食べるのが、人間の多様性を保つには正解なんだろう。(元の慣用句の意味はそんな感じだし) そう思うと、どんな人でも別に自ら死ぬ必要もない。そして標準でないことをアレコレ言われる筋合いもない。 だとしても一定の基準、生きていていい基準とはなんだろう。
もしかしたらどこかの細胞が判断しているのか、死刑の判決がなければ生きていていいのか。例えば誰かに『死んでしまえ』なんて言われたとして、むしろ言った側が当てはまるんではないか、本当に言われた側がそうなのかはわからないけれど。
人間が判断できるのかもわからない。



また『生きてていい』と死刑は別で、まあ捕まってないとか誰にもばれていないけど死刑に値する犯罪者なんて今ものうのうと生きている。この世に限っては人を傷つけても生きていていいんだろう。天罰なんてないし…。究極を言えば“自分の遺伝子”が最優先で…となっていく。自分の行いを省みない人生はそれはそれはとても楽しいものなんでしょうね。でもそうは言ってもそんな人にはなれない。他人が気になる。マンモスを倒すのに一人では無理だったからそういう風に思う、なんていう感じなのかな。
天敵がいないから個人個人で好き勝手するようになるのかな。(強いて言えば天敵は『蚊』なんだろうか)


罰として死ぬ。『罰として死ぬ』ってなんだろう…。みんなが『死んでいい』なんて思うと、名目と感情が一緒になって死刑なのかな。
例えばナイフを空振りしているところに人がふと来るとか。そこまでいかなくとも、脳の細かい動きで『犯罪行為』をするかしないかを日常的に選択している。もしそういうものが一般的なら怖い…。よく『犯罪者は普通の人、私たちと変わらない』なんてバカみたいなことをいう。
また『罪の意識』なんていう。親が罪やいけないことを教えてくれなかったらどうだろう。脳は普通なのに教育のせいで犯罪者になってしまう。
犯罪者について、とりあえず2つ思う。罪がなんなのか理解できない人や教育されなかった人。それと罪とわかっていても自分を抑えられない人。俗にいう『犯罪者は普通の人』という人達がこれに当たるんだろう。勿体ない。でもその一時的なコントロールが自分の手に負えない時、一人だったり、追い詰められたりすると、そうなってしまうのかな…。そういう人達でやっと“後悔”出来るくらい。また私達がまるでグレーなゾーンで生きていると錯覚する。
罪を犯してしまったけれど後悔や反省の出来る人達と、後悔もなく罪と認識しなかったり、自分をコントロール出来ない人、罪な人はどういう人なのでしょうね。



またよくある弱者(たぶんもう死語)の中に含まれない。そんなに頭がよくなくて『いい人』はどう生きているのだろう。頭がわるくて『悪い人』は塀の中でご飯が食べれる。知能が高くてそれならば優に生きていける。(周りは迷惑だけど)
頭がよくて『いい人』は何故か見えない。
とまあ2マス2軸の単純思考ですが。例えばホームレスの方って選挙権あるのだろうか?海外にいても投票出来る人がいる一方です。この世はお金みたいです。



それでも人は死ななくていいとか、そんなこと考えるのが野蛮だと思うかも知れない。人々が『バカやろう』と思う人だって、それ以上の"生き物"に愛されているかもしれない。そうだとしたら、『人道つくして天命…』には逆らえないということ。
そして教育や周囲の影響で本来、真っ当に生きられる人が罪を犯してしまうのはやるせない。


僕は生きてていいですか?


人間は何をしても後から言い訳出来るから、どうやってもそのままなら罪を感じないはず。けれどなぜか罪悪感なんてあったりする。また法律は感情や罪悪感とは無関係に見える。
もちろん人を傷つけるのは馬鹿野郎でサイテーですが、罪と罰が人間にはピッタリとは合わない気がします。