この世のwannaからmeを守る

この世の罠から身を守る方法を考えていきます。

生きていていい基準と他人の不幸

他人の不幸でご飯が美味しくない。というより食べる気にもならない。被害者という言葉を聞きたくない。だからテレビなんて嫌い。暗いニュースと明るいバラエティが並んでいる。タダより高いものはないって言うけれど、ムダにした時間が取り返せないことに対するものと理解している。記者は偉いのだろうけど、それに変な色を付けて見せられてしまう。 テレビの習慣なんて心理学を使われちゃってるだけなんだよ。



他人の不幸とはいっても、人がどうなろうとニコニコご飯を食べるのが、人間の多様性を保つには正解なんだろう。(元の慣用句の意味はそんな感じだし) そう思うと、どんな人でも別に自ら死ぬ必要もない。そして標準でないことをアレコレ言われる筋合いもない。 だとしても一定の基準、生きていていい基準とはなんだろう。
もしかしたらどこかの細胞が判断しているのか、死刑の判決がなければ生きていていいのか。例えば誰かに『死んでしまえ』なんて言われたとして、むしろ言った側が当てはまるんではないか、本当に言われた側がそうなのかはわからないけれど。
人間が判断できるのかもわからない。



また『生きてていい』と死刑は別で、まあ捕まってないとか誰にもばれていないけど死刑に値する犯罪者なんて今ものうのうと生きている。この世に限っては人を傷つけても生きていていいんだろう。天罰なんてないし…。究極を言えば“自分の遺伝子”が最優先で…となっていく。自分の行いを省みない人生はそれはそれはとても楽しいものなんでしょうね。でもそうは言ってもそんな人にはなれない。他人が気になる。マンモスを倒すのに一人では無理だったからそういう風に思う、なんていう感じなのかな。
天敵がいないから個人個人で好き勝手するようになるのかな。(強いて言えば天敵は『蚊』なんだろうか)


罰として死ぬ。『罰として死ぬ』ってなんだろう…。みんなが『死んでいい』なんて思うと、名目と感情が一緒になって死刑なのかな。
例えばナイフを空振りしているところに人がふと来るとか。そこまでいかなくとも、脳の細かい動きで『犯罪行為』をするかしないかを日常的に選択している。もしそういうものが一般的なら怖い…。よく『犯罪者は普通の人、私たちと変わらない』なんてバカみたいなことをいう。
また『罪の意識』なんていう。親が罪やいけないことを教えてくれなかったらどうだろう。脳は普通なのに教育のせいで犯罪者になってしまう。
犯罪者について、とりあえず2つ思う。罪がなんなのか理解できない人や教育されなかった人。それと罪とわかっていても自分を抑えられない人。俗にいう『犯罪者は普通の人』という人達がこれに当たるんだろう。勿体ない。でもその一時的なコントロールが自分の手に負えない時、一人だったり、追い詰められたりすると、そうなってしまうのかな…。そういう人達でやっと“後悔”出来るくらい。また私達がまるでグレーなゾーンで生きていると錯覚する。
罪を犯してしまったけれど後悔や反省の出来る人達と、後悔もなく罪と認識しなかったり、自分をコントロール出来ない人、罪な人はどういう人なのでしょうね。



またよくある弱者(たぶんもう死語)の中に含まれない。そんなに頭がよくなくて『いい人』はどう生きているのだろう。頭がわるくて『悪い人』は塀の中でご飯が食べれる。知能が高くてそれならば優に生きていける。(周りは迷惑だけど)
頭がよくて『いい人』は何故か見えない。
とまあ2マス2軸の単純思考ですが。例えばホームレスの方って選挙権あるのだろうか?海外にいても投票出来る人がいる一方です。この世はお金みたいです。



それでも人は死ななくていいとか、そんなこと考えるのが野蛮だと思うかも知れない。人々が『バカやろう』と思う人だって、それ以上の"生き物"に愛されているかもしれない。そうだとしたら、『人道つくして天命…』には逆らえないということ。
そして教育や周囲の影響で本来、真っ当に生きられる人が罪を犯してしまうのはやるせない。


僕は生きてていいですか?


人間は何をしても後から言い訳出来るから、どうやってもそのままなら罪を感じないはず。けれどなぜか罪悪感なんてあったりする。また法律は感情や罪悪感とは無関係に見える。
もちろん人を傷つけるのは馬鹿野郎でサイテーですが、罪と罰が人間にはピッタリとは合わない気がします。